日本プロレス界の至宝!
栄光のインター王座 日プロ編

初代 ルー・テーズ 防衛7回?


今回このタイトルについて色々調べたのだが
初代王者はテーズなのは間違いないらしい。
一説にはロッカではないか?とも言われているのだが
これはインターと名のつくタイトルが無数にあるためである。
だが今回取り上げるインター王座の起源はやはり
テーズだということである。
さて、この王座が設立された経緯なんだが長きに渡って
こう言い伝えられてきた。
テーズが欧州遠征などの結果936連勝なる偉大なる記録を
打ちたてた為にNWAが功績を称え認定した。
これが長年に渡って信じられていたわけだな。
但し日本に限っての話だろうけど(微笑)
さて、この話だが俺は全く信用してなかったね。
大体が936連勝ってのも大嘘なんだし♪♪(大笑)
まぁこんなこと言うと夢の無い話だと思われそうだが
記録として考証すると事実なのである。
まぁ・・・記憶じゃ936連勝でも功績を称えて設立したって
ことにしておきたいものだがね。
では、実際の設立の経緯はこうだ!(この説が有力って範疇ですが)
テーズが欧州遠征の赴く際に手ぶらじゃなんとも格好がつかない。
ならば勝手に個人でタイトルなんかでっち上げてしまえ!
そんな経緯の本当に適当なタイトルだったらしい(微笑)
そもそも欧州遠征自体も一見には
流石は世界のテーズだ!世界中の強豪相手にしてたんだな・・・。
なんて思ってしまうが実際の渡欧目的は単なる観光であり
プロレスの試合は「ついで」に過ぎないという驚きの事実ですよ!
このように事実を突き詰めていくと一般的に語り継がれているような
プロレス的なエピソードとは余りにもかけ離れていて愕然とするかも
しれないが、こんなとこまで興味を持って調べるような人間は
かなり濃度の濃いマニアなんで愕然どころか楽しくて仕方がないね(微笑)
俺にとっては逆に実際は、こんなタイトルなんか元々なくて
力道山とテーズが共同ででっちあげたタイトルだと思ってたくらいなんで
力道山に王座移動するまでに防衛戦が行われていたという事実が
確認できただけでもマニア冥利につきますよ。


第2代 力道山 防衛20回 死亡→空位


先ずはタイトル奪取について書く。
LAでテーズを破って獲得したことになっているが
これが非常に怪しい。そのドタバタぶりは広く知られているのでここでは割愛する。
ただ一つだけハッキリ言えることは
この試合のVTRはおろか写真の一枚もないことである。
写真くらいはあるのかも知れないが少なくとも俺は一度も見たことはないね。
しかし文献によると試合は行われたのは確からしいが・・・(微笑)
さて、力道は看板タイトルとして防衛していくのだが、実際のところ
大した相手とはあまりやってないのも事実(微笑)
防衛期限も適当で1年近く防衛戦を行わないなんてこともあった。
それに挑戦者もグレート・アントニオやヘイスタック・カルホーンといった
化け物系の相手が多かったりして、まさに力道のワンマンタイトルといった感がありあり。
その中でも世界的強豪といえるのはパット・オコーナーくらいかな。
ジョナサンはまだ若かったし、デストロイヤーは逆に力道の晩年だしなぁ。
あと面白いのはジム・ライトに1度「反則負け」防衛してるのだが
これは長いインターの歴史でも力道だけだと思う。
余談だが試合後にはライトはベルト巻いてるんだよね。
しかし再戦ではキッチリと力道が勝ってるので、ライトを王者としても
良かったのかもしれないな・・とは思うけど。

第3代 ジャイアント馬場 防衛21回

 この第一次政権時代が最もインター王座と馬場が輝いていたのではないだろうか?
挑戦者の顔ぶれも超一流どころがズラリと並んでいる。
それも力道山が呼ぼうとしても叶わなかったような猛者ばかりである。
エリック・サンマルチノ・ブルーザー・リソワスキー・キニスキー等など・・・。
今で言えば毎シリーズごとにゴールドバーグやロックやオースチンが挑戦しに
来日しているようなものである。
その世界の強豪相手に馬場はダイナミックなファイトで名勝負を展開し
力道山亡きあとの日プロの隆盛に貢献したのである。
更に言えば、この時の馬場の頑張りが無ければ現在のプロレスは無かったのではなかろうか?
ところで王座獲得初期の頃は「もう一人のエース」豊登も健在だったのだが
豊登は一切この王座に関わってないのである(結局生涯1度たりとも)
これは看板タイトルは馬場に・・・・というフロントに先見の明があったと思うね。
ダラ幹なんて言われてたが先を読むことはできたようだったかも。
しかしこの時点ではの注釈付きではあるが。

第4代 ボボ・ブラジル 防衛0回


師匠力道の防衛記録更新した直後に王座転落。だが反って一流の
ブラジルが戴冠ということで王座の価値が上がったのかも知れない。

第5代 ジャイアント馬場 防衛18回
キッチリと最終戦の蔵前で王座奪還!
第二次黄金時代を築いていくことに。その中でも現役NWA王者である
ドリーとの試合は今でも語り草だ。馬場本人も長く最も苦しい試合だったと
語ってように灼熱地獄で繰り広げられたという点でも印象深い。
しかし!この試合は現在ではテープが残ってないのか見ることが
出来ず非常に残念である。
それと前述したように現役NWA王者に挑戦させたという点でも
権威向上に多いに貢献したといえる。このドリーとは初戦こそ
馬場がドリーのNWAに挑戦したがWWWF王者のサンマルチノや
NWA王者キニスキーが相手でも決して挑戦せずに
あくまでも挑戦者扱いとしていたからね。
更に対等な立場での安易なダブルタイトル戦を一切組まなかったのも
特筆に値すると思います。

第6代 ジン・キニスキー 防衛0回


シリーズ最終戦での外人による王座獲得。これは平成プロレスでは何ら驚くことでもないのだが
当時としては非常にショッキングな出来事であった。

・・・・このように長年に渡って最終戦と思っていたのだが
これは完全な勘違いで、この後にも「栃木、新潟、浜松、盛岡」と、
4戦もシリーズが残っていたことが最近解りました(汗)
だがこれにより違う疑問が浮かび上がる。 そう・・・何故この残り日程でリターンマッチを組まなかったのか?
プロレス的な理由としてはキニスキーが拒否した為と言われているが
これは違うだろう(微笑) では、先ず考えられる事は残り4戦の会場がハコとして見た場合
規模が小さ過ぎるということ。つまり・・・馬場の奪還戦を田舎なんかじゃやってられない!
と、いうこと(微笑)ただし新潟は馬場のお膝元だし開催しても良かったように思えるのだが・・・。
しかし実際は既にカードも決まっていた為に変更が出来なかったとか
キニスキーとも、そういう契約だったとか、テレビ中継の都合・・などと考えるのが妥当なところであろう。
だが・・・全くの仮説であるが、こんな説はどうだろうか?
一旦は日本でキニスキーに王座を獲らせ、奪還戦は海外でやることに決まってたのではなかろうか?
何の為にそんなことを・・・?という疑問にはこう答えてみたい。
海外でリターンマッチという壮大なロマンをファンに見せることが一つ。
実際、日本の至宝であるインター王座が海外流失ということで騒然としたそうな。
それとアメリカマット界にもキニスキーを倒して馬場が王座奪還という
絶好のアピールにもなる・・・・ではなかろうか?
つまり日本だけではなくアメリカ本国でも馬場と日プロの力を見せつけた。
そう・・・世界を相手にしてのアピールだったのではないかと。
こう考えれば日本の中都市でキニスキーほどの大物から王座奪還するよりも
遥かにメリットがあると思うのだが。
やはりねぇ・・・本当に海外流失が悲観的なことだったら
何が何でも残り4戦でリターンマッチ組むでしょう(微笑)
なんて仮説というか妄想炸裂させてはいるが、このように色々と考えてみるのも
プロレスの楽しみの一つなのでね。
現在の平成プロレスには、そういった魅力が決定的に欠けているように思えるのだが・・。
その海外に持ち去られた王座奪還の為に、飛行機に乗って海外に馬場は飛んだ。
これもまた海外旅行なんて夢のような時代の人々には壮大なスケールに映ったという。
結局馬場は期待に応え(予定通り?)見事王座奪還に成功するのだが
失敗した場合の次期挑戦者には猪木が内定していたらしいので
これも見たかったなぁ・・というのも正直な気持ちである。

第7代 ジャイアント馬場 防衛10回 返上
栄光のインターも色褪せてきた。挑戦者の質が若干悪くなってきたように思う。
そして馬場は日プロ離脱に際し返上したのだが、当初は王座を保持したままの離脱を
考えていたようだった。しかし大木から「出ていくのなら俺の挑戦を受けてからにしろ」
こう迫られると意外にもアッサリと返上した。

第8代 ボボ・ブラジル 防衛0回

大木との決定戦に勝ち王座返り咲き。
しかしブラジルに一旦ベルトを巻かせたのは首を傾げざるをえない。
勿論2戦システムだからというのは解るのだが。
一方破れた大木は力道山のベルト奪取成らずで試合後には号泣したと言われている。
どうでもいい話だがブラジルは3日天下ということで非常に印象が薄く
自分はいつも歴代王者を述べる時にこの「第8代王者」抜かしてしまう(微笑)。

第9代 大木金太郎 防衛29回? 剥奪


ようやく悲願のインター王座を獲得するも、2度防衛したところで日プロはあえ無く崩壊。
その後は大木の個人所有ベルトとしての色合いを濃くし祖国韓国で防衛戦を行う事に。
後年は国際のリングで念願の日本での防衛戦を再開し29度という防衛記録を樹立。
しかしこのような経緯もあり馬場やマスコミは3度目以降の防衛戦を認めていない傾向にある。
長年に渡って防衛記録が不明だったこともその一因であろうかと思う。
だが平成12年に刊行された週刊ゴング別冊「日本プロレス50年史」において
ようやく記録が掘り起こされたのである。
その防衛記録であるが、ハッキリ言って29度という回数とは
裏腹にかなり挑戦者の顔ぶれからして
マイナータイトル然となってることは否めない。
更に未だに防衛回数は各方面によってバラバラであったりと怪しい面も多々あるのも事実。
しかし当サイトでは、この「日本プロレス50年史」を全面的に信用し、

これを公式記録としたいと思う。その理由は、これ以外に調べる術が無いことと、
祖国韓国で孤軍奮闘(?)してきた大木に対しての敬意を表してのことである。
さて、そんな奇妙な?防衛戦の中でも挑戦者に猪木を迎えての3度目の防衛戦であろう。
前年10月には猪木がNWF王者として大木の挑戦を受けたのだが
この時は立場を逆にしての対戦。何故このようなカードが組まれたのか?
猪木は当時虎の子のNWF王座を仇敵シンに奪われた直後であり
「代わり」のタイトルが欲しかった為とも言われている。
しかし俺はこの説には賛同できないけどね。その理由は後で述べる。
その試合結果だが両リンによって大木は防衛に成功。
これは大木の祖国韓国で行われた試合だったので多分に
猪木が大木に花を持たせたのではないかと思う。
それにしても猪木ファンは「この時インター獲ってたらなぁ・・」
なんて見果てぬ夢を今でも見続けてるわけなんだが(微笑)
猪木はハッキリ言って獲る気はサラサラなかったように思える。
それはこの一戦の後、僅か1週間後に新日本のリングにおいて二人は再戦している。
この時はワールドリーグ公式戦ではあったが、その後に何時でも新日本のリング上で
インター戦を行おうとすれば出来たはずである。
大木は再び日本のリングでのインター戦を悲願としてたのだから。
勿論猪木の王座獲得も可能だったろう。しかしNWF王座を既に看板タイトルとして
定着させていたこともあるが、それ以上に「馬場が巻いているからこそ価値のあった」王座と
思ってたいたようにである。そう・・・なので今更大木の腰に巻かれている色褪せたインターなんぞ
猪木にとっては何の価値も見出せなかったのでなかろうか。
そうでなければインターの長い歴史の中で猪木の絡んだ試合が生涯たった一戦とはならなかったであろう。
その後の大木だが全日本に戦場を移し馬場や鶴田と何度も対戦する機会を得るが
馬場は1度たりともインター戦を「やらせなかった」馬場にとっても、とうに捨てた王座を
今更といった感があったのであろう。しかし後に述べるが必要となったら
即座に剥奪していたのは悪い言い方だが馬場の「いやらしさ」を見た思いがしたものだ。
結局大木は国際のリングで悲願の日本マットでの防衛戦を行ったが、
これは事実上の大木の引退へのハナムケであったように思える。

 

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